50年目の櫻に寄せて

コロナ戦争のニュースにつぶされそうです。
皆様お見舞い申し上げます。コロナをうつさないように、うつらないように!!

さまざまのこと思ひ出すさくらかな  芭蕉さんの句

4月25日、亡夫の50回目の命日です。
私は嫁いで浜松町に住んでいました。家の前には都電が走っていました。
会員の皆様の中にはまだ生まれていなかった方もおいでではないでしょうか?
昭和42年暮れ、香港風邪という病気が蔓延しました。

43年を迎え明治神宮へ初詣に行くのが我が家の事始め、同居の義父母と2人の息子
茶道を極めていた主人は羽織袴で運転、ところがお宮の鳥居の見えるところで
「寒気がするから車で待っているよ・・・」子供たちの誘いにもかかわらず…。
主人は車に戻りました。

私はお参りしてから御御籤を引きました。「凶!です」
巫女さんが「これは焚きあげにして清めますからもう一つひいて…」
また「凶!」変な気持ちでもう一度・・・大吉にはなりませんでした。
  
家族が流行した香港風邪で寝込みましたが間もなく次々治りました。
でも主人は起きられず往診の先生が聖路加病院へ紹介状を書いてくれました。
主人は次の日自分で運転し私も気楽にお供して検査を受けに行きました。
「入院して検査をしましよう」と看護婦さんに案内されベットの中へ…。
 
間もなく部長さんがみえ「奥さん、あとでお寄りくださいね」3分もかからず出て行かれた。
部長は開口一番「ガンです。早ければ1週間、長くても3ケ月ですね」私が理解できたのは
「3月で死ぬ」ということでした。
50年前「癌という文字」は新聞にも雑誌にも見かけません。解せないまま
公衆電話をかけ号泣する母の声…。どのように家に辿り着いたかわかりません。
一ト月後「脚が痛くて眠れない。鉄の棒が焼けているようだ。」
「足をきってくれ、片足でも頑張るから…」
部長は「モルヒネ打ちますから身内の方にご連絡ください。命は時間の問題です。」

個室に友人が可視光線という機械を持ち込み光を当ててくださると主人はすやすやと
眠りこんだ後「家に帰りたい!」うちの客間が病室に別の友人が酸素を持ち込んでくれた。
主人の前では泣くことも出来ず薄氷を踏むように着物のまま寄り添って仮眠し
カーボンの火を守っていました。

下の息子が一年生になる。私の母が祝ってくれたランドセルを背負って見せに来る。
「入学式はママとだけでごめんね」「治ったら運動会にいくね。」虚しい指切り。
子煩悩なパパの顔はほんの一時だけでした。

そのころの櫻は4月になってからしか咲かないものでした。
4月「神明小学校」の櫻は立派でさぞかし美しかったはずだが私の目線は伏せられていた。
3年ぐらい大好きな大好きな桜の花を見られなかったことをおもいだす。

私は桜の季節病院のパパと幼い息子たちの手紙を開く、今日がそんな日になった。
家族一同、健やかに生きてこられたのは主人のご加護かと思えてならない昨今です。
合掌、

さくら着物工房「バリアフリー着物」